感想その②鑑賞歳時記第三巻秋 飯田龍太著
著者の飯田龍太さんがこの本で紹介される俳句の数は600句ほどにものぼり、それぞれの四季四冊では2000句を越えるでしょう。
全部読んだのと聞かれれば、へへっとごまかしたくなる量なんです。
飯田さんは俳人との交流も深く、知り合いの作品も多いようです。祖父の句も100句以紹介しましたが、ここまでまとめる熱量にはかないません。
さて、筆者曰く、
人間に対する関心なくして(すくなくとも文芸の上では)俳句づくりはあり得ないそうです。
また、俳句は生命をいとおしむもので、
根底には自然をいとおしむ気持ちがあるのが良いようです。
秋冷えて膝に童女の在るごとし 久保寺正三
この句のうしろにある作者の年輪と、俳句との交わりの歳月を私は感慨深く眺める。(中略)膝を離れ去った童女の温かみを、こころの温かみとして胸に残す作者の年輪をこの句の重心と見るべきだろう。(作中より抜粋)
飯田さんは、お互いもう歳だなんて言わないんですね。年輪が増えたという捉え方でこのような古い知り合いがいるというのはお金では買えない財産のように思いました。
西瓜食ふ子にまんまるな腹があり 相良吉郎
西瓜(すいか)などを食べると、たちまち膨らんで、ぱんと裂けはせぬかと心配になる。しかも裸のそのお腹のまん中に可愛らしいお臍ひとつ。お臍があるからお腹の膨らみが一段と目立つのだ。ともかくこんな愉快な句は、そうそうお目にかかれないのではないか。(作中より抜粋)
幼児のまんまるなお腹が目に浮かびます。
末枯れや(うらがれや)常に耳向く保育園 大村松蒼
寒暑のいずれの季も、保育園に児を送った母親の感情は甚だ密なものである。児が出かけて、すっかりそのことを忘れ、家事に専心しているようでも、カッと日が射すと汗をかきはせぬか、木枯らしが鳴ると、セーターが薄すぎはしなかったろうかと思いわずらうもののようである。(作中より抜粋)
末枯れは、晩秋の季語で、草木の葉先から枯れる意味だそうです。
花びらを踏みももいろの胎児かな 久々子
昭和55年当時台頭してきた女流俳人の句を複数紹介したものの一つで、この句には鑑賞文がありませんでした。
季節は春なのですが、女性ならではの色彩豊かな俳句だと思います。
子育て中、子が巣立った後にも、このように文字として残り、仲間と交流があるという俳句の世界がとても魅力的でありました。
他にも
新米を炊く喜びの水加減 岡田眞三
など食に関する俳句も有りますし、
9月19日の子規忌をとりあげたコラムでは、辞世の三句の第一句以外は特に秀抜とは言い難いとか、19日なんだけど、月齢では十七日の意で、
子規逝くや十七日の月明に 虚子
事実そのままともとれるし、直面した人にしか作り得ない激しい作品とも評価していました。
このあたりで、おひらきにしたいとおもいます。
次回は、祖父の句紹介にもどります。