90松尾芭蕉の旅その3
祖父の川柳、俳句をもっと知りたいと、探求していたら、奥の細道にいきつきました。
字幕放送をまとめたサイトを見つけ、それよりかいつまんでみました。
松尾芭蕉は、江戸時代 、農家の次男だったため10代で武家奉公に出ました。
その武家とは、幕府老中の親戚すじにあたる藤堂家。その一族、良忠に出会い、芭蕉の運命もかわります。。
お世話をする中で、良忠の趣味の「俳諧」にのめり込んでいくからです。
良忠は蝉吟(せんぎん)という俳号でした。
後に詠まれた
閑かさや岩に染み入る蝉の声
芭蕉
この句は、蝉吟を思って作った句ではないか。
ということを一つ言われていました。
良忠が亡くなっても俳諧を続けた芭蕉は、奉公先を出て、日本橋に家をかまえ、句会を主宰する俳諧師になります。
また、神田上水の施工に携わり、明治に新しい水道ができるまでの300年間江戸の人々の喉を潤したとあります。
水道請負=政治とも精通していたのではないかということです。
その証拠に、奥の細道に同行した曽良は、幕府の要人として雇われるそうです。
行春や鳥啼魚の目に涙
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
この旅に出るときと、終わりに詠まれた俳句を並べて、芭蕉の変化をみるとき、
重いのをいかに軽く詠んでいくか。
古典へのオマージュ、漢文など難しいことを基礎としている部分もあった世界に、
すべてのものがながれていく、その中で必死に生きている。
そのことを瞬間瞬間捉えようと、俳句にこめたのが芭蕉なのではないか。
「軽み」は、テレビが最たるもので、
「高く悟りで、俗に帰れ」と芭蕉が言うように
固い古文書では世の中には広がっていかない。テレビがやっていかないと。。
しかし、軽みは誤解も生みやすい。という
最後はその加減のむずかしさを説いていました。