157あとがき
母の止める声を後に宿泊の米二升持ち、当てもなく故郷を出たのは、戦後間もない昭和二十二年三月のこと。程よく募集中の神戸製鋼所に入社できたのも幸運でした。以来、歯車の一つとなって生産に寄与、昭和五十一年無事停年を迎え現在に至っています。
入社当時は、俳句部に入り、何の基礎もない私の句が文化祭に入選、「茶のうまさ夜更けてひとりちろり聞く」が俳句として第一句でした。その俳句部も、指導者の転勤等で何時しか解散となり、ふと目についたのが新九州新聞柳壇でした。初めて投句したのが活字となった句は「黒髪と今は別れる美容院」でした。以後、柳壇の先輩の紹介で下関一杯水川柳会に入会、雅号も草花とし働く者の趣味として、ひたすら川柳を作り続けてまいりました。
そうした中、私の家庭内にも色々なことがおこり、「子の墓に母校の鐘がよく聞こえ」など悲しい出来事もありました。
此の所、長府の一角、逢坂に移り来てより、早二十年の月日が過ぎ、好きだった将棋、川柳も、身体の不調等で停年後は次第に遠ざかっていますが、昭和六十二年頃より息子と共に作りました作品の一部を、ここに載せることにしました。
俳句に季語があるように、川柳も題により出来た句ばかりです。まことにお恥ずかしい作品ばかりですが、その何れもが、その日、その時に生まれた生活句、懐かしく思っております。
また俳句は、講師迫田白庭子先生により基礎より勉強中です。未だ日浅く未熟な句ばかりですが、今までの入選句より自選をし、合わせてここに載せることにしました。「自分史を書いて運命振返り」
七〇才を期に綴りました私達の拙い生活詩、川柳、俳句、短歌、随想など、ご一読いただければ有り難く思っています。
平成三年文月好日
城下町長府逢坂にて
河野道春